薄っすらと それでも確かに存在するソレは

シューズのつま先でほんの少し小突いただけで

その摩擦熱と力でいとも容易く割れる

濡れて傷むシューズを案じ できるだけ触れぬようにとそう思うのに

見かけると触れずには居られない

さて この気持ちをなんと呼ぼうか






薄氷の上で





季節は移り、暦の上では一応もう春にあたる。

言われてみれば昼の日差しがごく僅かながら春めいたようにも思うが、

朝夕の寒さはまだまだ厳しい。

オマケに夜更けに雨が降った後ともなれば、

明け方の寒さはちょっとした拷問のようにさえ感じられる。

西の生まれである自分はどちらかといえば寒さに弱く、

普段から猫背気味のその背中は寒さに伴って更に丸まっていく。

見た目が鬱陶しいという理由で姉から常に結う事を命じられた髪。

小さく結われた銀色の尻尾のようなそれのせいで

少し歩くと首もとのマフラーがゆるゆると緩んで非常に煩わしい。

緩んでしまった首もとのマフラーを直そうと手を掛けると

次の瞬間、タイミングよくびゅっと音を立てて 凍てつく様な風が頬を撫ぜた。

ぶるりと身震いを一つすると 自然と眉間へと皺が寄る。 

ただでさえ眠気という強敵と戦っていたというのに

寒さという援軍にまで攻めて来られたとあっては

朝練へと向かうその足取りはより一層重くなっていくばかりだ。


「寒いのぉ…」


ぽつりとそう呟いてみても当然返事等は無く

その独り言はただ空しく空を切った。

1度歩みを止めてしまうと それこそ誘惑に負けてしまう。

自分のその怠惰な性格は良くわかっているつもりなので

歩みだけは止めてはいけないと自分に言い聞かせ

重いその足を必死にのそのそと動かす。

ほんの少し進むと 道の先になにやらキラキラと光るものが見えた。

ゆっくりと歩み寄ってみれば、それは小さな水溜りだ。 

地面自体はもうほぼ乾いてはいるが

道路の至る所に見受けられる小さな凹凸には、まだ水溜りが残っている。

それでも、その水溜りに少々の違和感を感じてまじまじと眺めてみれば

その表面にはしっかりとした氷が張っていた。

途端、むくむくと湧き上がる好奇心。

ただでさえ 日々続く厳しい練習のおかげでシューズは消耗しやすい。

もちろん、生活必需品などの消耗品は親から融通を利かせてもらえるとはいえ、

部活の道具に関しては、ある程度自分の小遣いでやりくりする約束になっている。

先日 ラケットのグリップテープを購入してしまったばかりの財布に

シューズ代はいくらなんでも重過ぎる。

しかし、日々続くハードな練習と、度重なる練習試合とで

シューズがそれなりに傷んできている事はひしひしと感じていた。 

せめて小遣いが充分に貯まるまでは少しでも大事に扱わなくてはいけない

そう心に決めているのだ。

それでも 好奇心に勝てないのは中学生の【サガ】というヤツだ。


(ちょっとくらいなら濡れても大丈夫じゃろ)


まるで何かに誘われるように そのつま先をつっと氷へと伸ばす。

勢い良く蹴ってはシューズがずぶ濡れになってしまう可能性があるから

優しく優しく 触れるように それでもそれなりの力を込めてぐっと押せば

パキっと軽快な音を立てて その氷はひび割れた。

その浅い浅い水溜りは 幸いこの肌を刺すような寒さのおかげで全てが氷に化けている。

好奇心に負けたのは自分自身ではあるが 命拾いをしたシューズにほっと胸を撫で下ろす。

氷の割れるその音は とても とても小気味良く、思わず口元がにやりと緩んだ。


「楽しそうだね、仁王。」


ふいに後ろから声がして 柄にも無くほんの少しびくりと体が跳ねた。

ゆっくりと振り返れば そこに居たのは深い藍色の髪をした綺麗な顔立ちの男。

友人の幸村精市だ。

幸村はその様子を見てくすくすと笑ってオマケのように「おはよう」と付け足した。


「おはようさん…幸村。お前さん、相変わらず神出鬼没だのう…。」


幸か不幸か 自分と幸村とは家の方向が同じである。

その為、こうして時折登校中に鉢合わせる事もしばしばあったが、

いつもというわけでもないので今日は少し油断していた。

童心に帰る様を見られるのは、まるで失敗を見られた子供心に似て

なんだか少々気恥ずかしい。

それを察して気遣っての事なのか、幸村はそこには特に触れてこなかった。


「あっはは、仁王ほどじゃないさ。」


そう言って大きな口をあけて笑う様は繊細なその顔立ちに似合わずなかなか豪快だ。

もしかすると、いつも遠巻きに熱視線を送っているファンの女子達が見たら

それは些か違和感を覚える姿なのかもしれない。

それでも、自分はこちらの顔の方が好んでいたし それを馴染み深く感じるのは

それまで共にしてきた時間がそれなりに長い事を示しているのだろう。


「割りたくならん?こういうの?」

「まぁね。」


主語も無くそう放った言葉でさえ 幸村はちゃんと汲み取ってくれた。

そんな単純な事でも、妙に嬉しくなる。


「でも俺、水溜りは少し用心しているんだ。」

「濡れたらシューズが傷むからじゃろ?
 そんくらいは俺だって一応用心しちょるよ。」

「うんまぁ、それもあるけど…」


幸村にしてはその回答は歯切れが悪い。

というより、その言葉は暗に何かを含ませているとしか思えなかった。

その証拠に、幸村の口元は妙に楽しそうに歪んでいる。

先ほどの気遣いの礼になるかはわからないが、

俺は幸村のその企みに乗ってやる事にした。


「『けど』、なんじゃい?」


そう言って笑って見せると、幸村は嬉しそうに一層口元を歪めて見せた。


「だって『水溜りは別の世界につながってる』っていうだろう?」

「は?」


予想だにしないその幸村の一言に、おもわずぽかんと口をあける。

その様子を見て、幸村はまた「ははは」と豪快に口をあけて笑った。

いくら予想を上回る突拍子も無い回答が飛んできたとはいえ、

間抜け面を晒すだなんて不覚もいいところだ。

人の虚を衝くのは自分の専売特許で いくら相手が友人とはいえ

それを許すだなんてペテン師の名折れ。

自分の中に湧き上がる、ほんの少しの虚栄心と 間抜け面を晒した照れくささとで

唇を尖らせてわざとらしく呆れ顔を作って見せた。


「お前さんにしてはまた随分ファンシーな事を言い出すのぉ。」

「ふふふ。小さい頃、何かの本で読んでね。
『水溜りは別の世界につながってるから、不用意に踏むと
 そちらの世界に落っこちて戻れなくなってしまう』って。」

「まさか立海大の幸村部長ともあろうもんが、それが怖いとは言わんじゃろ?」


そう言って、からかうようににやりと口元を歪ませる。

そうだこの男に限って、そんなものを本気で恐ろしいと感じるわけが無い。



なにせこいつは つい昨日、我が立海大付属中学テニス部の新部長に就任した男である。



しかも上級生達を差し置いて、中学1年生と2年生の合間であるこの時期に、だ。

3年が引退したこの時期に言い渡された事はわかる。

しかしそれが次期最上級生に言い渡されたのであればならばいざ知らず、

次期2年生である彼に立った白羽の矢。

就任の話が発表された時、その場ではっきりと聞いていたにも関わらず、

どこか遠い世界の話を聞いているようにさえ感じたものだ。

それくらい、我が部の部長というのは絶対的な存在で、

そのポジションに、次期2年生である自分達の友人が付くと聞いたのだから

驚いてもおかしくはないだろう。

それでもその後、その事実は自分を含め全ての部員達の中に

驚くほどストンと納まった。

彼の実力は、部員全員が知っている。

だからこそ、上級生達で異を唱えるものは1人も居なかった。

彼は同級生で、部活仲間で、大事な友人だ。

それでも自分は、こいつは自分とは住む世界が違うそう思わずにはいられなかった。

つい昨日の出来事だからこそ、鮮明に印象づいている事実。

だからこそ、この男の殊勝な言い分には全く信憑性を感じられ無い。

事の真意を探るように わざとらしく顔を覗き込んでみれば、

幸村は 今度はにこりと静かに笑って見せた。





「怖いよ?」





その笑みは とても とても綺麗で、思わずはっと息を飲んだ。

まるで、一瞬心臓が止まってしまったように 非常に息苦しい。

時間にしてしまえばほんの僅かな時間だったのだろう。

それでも、幸村が次の言葉を放つまでの時間が酷く長く感じた。



「だって、水溜りに落ちて戻れなくなってしまったら
 お前達とテニスできなくなっちゃうだろ。」



そういうと幸村は まるで悪戯に成功した子供のように

くしゃりと顔を歪ませて笑ってみせた。

その笑顔を見て、俺の時間はやっと正常通りに戻る。

言葉の意味を反芻して理解してしまえば、あとは笑みが零れるばかりだ。


「ははっ、なるほど。これは一本取られた。」

「俺もなかなかいい事を言うだろ?
 さて、ぼちぼち急がないと。朝練に遅れる。」

「おっと、いかんいかん。遅れたら真田が五月蝿いからのぉ。」


幸村その一言で、止まっていた歩みを再び進めた。





*********************






重いまぶたを無理やりこじ開け 今日も今日とて朝練へと向かう。

眠気と戦いつつも、ずしりと重いテニスバッグを担げば

その足が学校のテニスコートへと連れて行ってくれるのだから

慣れというものは凄い。

ものぐさで飽きっぽい性分の自分にしては

非常によく頑張っている方だと自分でも思う。


(本当に 小学生時代の自分に見せてやりたい程の献身ぶりだ…)


それは、それだけテニスというものは自分の中で大きくなっているという証だ。

とはいえ、理由はそれだけではない事も、きちんと理解している。

テニスというものを思い出した時 自然と一緒に思い浮かぶのは

部長を務める あの友人の顔だ。

あれから約1ヶ月。

部長に就任してからというもの 幸村の活躍は目覚しかった。

まず行ったのは学年を問わず部員達の実力に応じた1軍から3軍までの振り分け。

次に、その実力に合わせて練習形態やら練習内容の見直しを行い、

その後、参謀である柳と共に 部員達の実力・能力に沿ったメニューへと

あっという間に組み替えて見せた。

そして、最後には自ら率先して他校へと足を運び、

たくさんの強豪校と練習試合の約束を交わしてきた。

ただでさえ、元々練習の厳しかったウチの部だ。

一体どこに練習以外のそんな事に費やす時間と余裕があったのか。

練習についていくのがやっとである自分には甚だ疑問でしかなかった。

そんな事を考えながら、重いその足を必死にのそのそと動かせば、

まるで叱咤でもするようにびゅっと冷たい風が頬を撫ぜた。

重いまぶたに、その鬱陶しいまでの爽快感を感じさせる朝の空気とは裏腹に

胸の中にはもやもやと言い知れない気持ちが渦巻く。

それは、他でもない幸村に向けられたものだ。

この数週間、この気持ちをなんと呼ぶべきなのか何度も考えたが、

何度考えたところで答えは出なかった。

嫉妬が無いといえば嘘になる。

かといって、彼の実力や努力をよく知っている分、ただの嫉妬とも違う。

そんな短絡的な言葉1つでは片付けられない微妙で難解なこの感情は

ぐるぐると渦巻いて胸の中に居座って そのままこびり付いてしまった。

その言い知れぬ不快感から、わざとらしく大きく首を回して鳴らすと、

ふと、自分のすぐ目の前に小さな水溜りがある事に気づいた。 

この、猫もコタツへ一目散したくなるような寒さである。

その水溜りにも、やはり当然のように氷が張っていた。


(夕べは雨なんて降ってないはずだがの…)


その違和感に首傾げ、辺りをよく見渡せば、そこが時折友人達と寄り道をする

小さな定食屋の前である事に気づく。

看板を前にして、その不思議な光景に一瞬で合点がいった。

ここの店は毎朝、知り合いの農家から材料を直送してもらっているのだと

幸村から聞いた事がある。

その為、毎日早朝に仕入れのトラックが居なくなった後、店の前を掃き、

最後に箱に付いた土汚れで汚れた店先を水で流しているそうだ。

その光景が清清しくて好きだと幸村が話していたのを思い出す。

冬場に早朝から外で水を使うのは少々危険なようにも思われるので、

それが冬にも行われていたのだという事に些か驚く。

確かに、朝っぱらから店先に土汚れが付いているよりはマシだろう。

とはいえ、小さな凹凸に溜まった水は、寒さによってしっかりと姿を変えている。


(これ、踏んづけてこける奴とかおらんのかのう…)


そんな事を考えてその水溜りをまじまじと眺めれば、

朝の日差しに照らされて、キラキラと放たれる光が酷く眩しい。

その光はなぜか今の自分には酷く忌々しく感じ、通り過ぎようとさっと跨ぐ。

しかし、そのキラキラとした光は妙に後ろ髪を引いた。

結局、くるりと踵を返し、一度跨いだその水溜りを睨むと、

水溜りは、まるで自らの存在を主張するようにキラキラと光ってみせる。

それを見て、忌々しく思うと同時に湧き上がる奇妙な感情。

まるで何かに誘われるように、そっと足を伸ばして踏みつければ、

氷はまた、パキっと軽快な音を立ててひび割れた。





*********************





忙しい毎日を送っていると、月日が流れる速度というのは本当に目覚しい。

気づけば、いつの間にかカレンダーの日付は3月へと変わる所だ。

まもなく3年生たちは卒業式がやってくるらしく、

体育館では今日も予行演習が行われていた。

とはいえ、1年生から2年生へと変化するだけの自分達にはあまり関係のない事で、

未だに授業があるのだからやっていられない。

風はまだ冷えるとはいえ、午後の日差しはそれなりに強く、

食後のこの時間帯に 窓際の自分の席へと容赦なく降り注いだ。

ありがたい事に未だ暖房の利いているこの部屋において、

その日差しは 酷く蟲惑的である。

ましてや、毎朝血の滲むような厳しい練習を強いられているのだから

致し方のない事だと思う。

少しくらいはと、その誘惑に負けてうとうとと小さく舟を漕ぐと

それは運悪く 英語を担当する若い男性教諭に発見されてしまった。

おかげで大嫌いな英文読解を命じられてしまったのだから今日はツイていない。


「『He ran after John of the pet and fell into the pit.』
 …あー…『彼はペットのジョンを追いかけて、穴に落ちた』?」

「great!うとうとしていたわりには上出来だな、仁王。
 ちなみに『眠りに落ちる』は『fall asleep.』。
 ということで『Please do not fall asleep.』。」

「Yes, sir …」


気だるげにそう続けて敬礼をすれば、教室内にはくすくすと笑い声が漏れた。

英語教諭も、まんざらでもないという顔で苦笑をしてみせる。

英語の授業は大して好きではなかったが、

自部はこの英語教諭には少なからず好感を持ってた。

特に彼のいい所は、その授業の脱線率の高さにある。


「さて、さらに余談だが、この『落ちる』という単語は
 穴等に物理的に落ちるというだけではなく、今言ったように
 『眠る』というような動作にも使用される…」

(ほら来た…)


彼はいつもこうして、授業に絡めて少しずつ授業を脱線する。

教諭としては少々問題があるのかもしれないが、

しかし、授業を聞く側の我々からすればそれはとても楽しい事である。

その上、それなりにタメになる事ばかりなのだから、尚の事良かった。


「某お笑い芸人のネタでお馴染み『フォーリンラブ』。
 つまりは『fall in love』…これは、『恋に落ちる』という意味。
『恋は【する】ものではなく 【落ちる】もの』とはよく言ったものだ。
 恋をすると、まるで別の世界でも来たように世界が違って見える。
 命短し恋せよ乙女。諸君はまだ若いのだからして、存分に人生を楽しみたまえ。
 だから1ヶ月遅れにはなるが、先月恥ずかしくて先生にチョコレートを
 渡せなかった諸君はホワイトデーでも先生受け付けてるから…!」


そう教諭が締めくくれば、途端、教室内は笑いの渦に巻き込まれる。

しかし自分はといえば、どういうわけかその話が酷く胸に引っかかって

まるで置き忘れでもしたかのようにぽつんとその場に残った。





*********************





今日も重たい足を引きずって 学校へと向う。

とはいえ、テストも終業式も終わった春休みだ。

生活の中心が部活のみとなった事が幾分か心を軽くする。

とはいえ、春というにはまだ朝の空気は冷えた。

ぐるぐると厳重に巻いたはずのマフラーの隙間から

こっそりと忍び込んでくる冷たい風が本当に忌々しい。

しかし、以前と比べてその風の猛威は些か納まったような気もする。

気づけば、頭上には朱色に近い鮮やかなピンクの梅が咲いていた。

桜が咲くのも もうそう遠くは無いのかもしれない。


(春になれば、気分も少しは変わるじゃろか…)


少し前から胸の中にこびりついたまま居座ったあの微妙な感情は、

未だそこに居座り続けていた。

もやもやと渦巻いていた感情は 色を変えて黒く変色し、

まるでシューズに付いた泥汚れのように我が物顔をしている。

できるだけ この事については考えないようにしてた。

それでもその感情の主張があまりに酷い日には

周りに気づかれぬ程度に そっと幸村と距離を取って凌いだ。

我ながら 情けなく思う。

日頃、周りの感情を上手く操る事のできる自分だ。

人を欺く事だってお手の物である。

それなのに、自分の感情一つ操れず かといって誤魔化して欺く事さえもできず。

そして それを甘んじて受け入れる事しかできないだなんて、

本当にペテン師の名折れだ。

本当は この感情の正体も なんとなくわかっている。



それは嫉妬で。


羨望で。


敬畏で。


憧れで。



しかし、そのどの言葉とも些かに違うのだ。

自分の知る限りの言葉1つでは片付けられない微妙で難解なこの感情は

一体なんと呼べばいいのだろうか。

深いため息と共に、まるで柳の木のように首と共に大きく視線を下げれば、

自分の足下に また水溜りが現れた。

それは、僅かではあれ、ここ最近見た中では最も大きい。

重い頭と共に視線を上げれば、視界に入るのは案の定、

あの定食屋だ。


(そういえば最近、来てないのう…)


ふとそう考えて、自己嫌悪に陥った。

それは幸村を避けているからに他ならなかったからだ。

表向き『金が無いからまた今度』と適当に理由をつけて、

ここしばらく避け続けた友人たちとの部活帰りの寄り道。

本来ならば楽しい時間であるはずのその時間も、

今の自分には苦痛にしかならない。

なぜなら、寄り道をすればそこには必ず幸村がいるのだ。

決して幸村が悪いわけではない。

しかし、むしろだからこそ、幸村といると湧き上がる

この微妙な感情を持て余す事しか出来ない自分が、歯がゆくて堪らなかった。

再び視線を足元へと戻せば

その水溜りは朝日を浴びてキラキラと放つばかりだ。

その表面にはいつものように氷が張っている。

それを見て 再びもやもやと胸の中へ広がっていく あの感情。



(いっそ、力任せに思い切り踏みつけてやりたい…)



それでも、そんな風にしてはいけないと頭の中で警鐘が鳴る。

その眩さに目を細めれば、不思議とその氷はより一層キラキラと光ったように思う。

湧き上がった感情をぐっと堪えて、いつものようにゆっくりと足を伸ばした。

しかし、力を入れようとしたのもつかの間

足先が触れたその瞬間 氷はカシャッと酷く小さな音を立てて

いとも簡単に割れてしまった。

足下でひび割れた氷達をよく見ればその1つ1つは全て 酷く 酷く薄い。

寒い寒いと背中を丸くしていただけの自分とは裏腹に

水溜りに浮かぶその薄い欠片たちは 季節がもうじき春を迎える事を示していた。

次の瞬間 足裏へじわりと広がる凍てつくように冷たい感覚。

その氷の予想以上のあっけなさに、ゆっくりと伸ばしたはずだったその右足は

そのままの勢いで水溜りへとダイブしてしまっている。



「あーぁ…やってしもた…」



その水溜りは かろうじて靴底のみしか浸からない深さとはいえ、

厳しい練習に晒し続けたそのシューズはもう限界へと達していたようだ。

確実に靴の中まで侵食してきているであろう冷水の感覚に、眉根をひそめる。

ゆっくりとその右足を引き上げると、シューズからはぽたぽたと水滴が垂れた。

その水滴は水溜りへと落ち 水面を揺らす。

すると割れて散り散りになった氷の欠片達が

朝日に照らされてキラキラと光を放った。


(水と氷が合わさると 氷の塊ともただの水溜りとも違う光り方をするんだな…)


そんな風にほんのちょっと場違いな事を考えながら

ただただぼーっと揺れる水面を眺めた。



なぜだろうか

そのキラキラと光る水面を見て 最初に浮かんだのは

あの時 水溜りが怖いと静かに笑って見せた友人の笑顔だった。



「大丈夫かい、仁王?」



途端、背後から聞こえる声。

それは酷く聞きなれたもので 心臓が飛び跳ねる。

ゆっくりと振り返れば 案の定 そこには良く知った顔。


今 一番 会いたくなくて

今 一番 会いたかった顔


キラキラと柔らかい朝日を浴びて 幸村はそこに佇んでいた。

その顔には、にこにこと笑みが浮かんでいる。

なぜだかはわからない。

ただなぜか、その笑顔を見た瞬間 酷く泣きたいような気持ちになった。

毎日顔は合わせているはずなのに

酷く 久しぶりに会ったような そんな気さえする。



するとどういうことだろう。

あれだけ悩んでもわからなかったというのに

その顔を見た途端

あの感情自ら いとも簡単に名乗りを上げてしまったではないか。



途端、胸にこびりついて離れなかったあの黒い感情は色を変える。

それまで気分と共にどんよりとして見えた周りの景色さえ

一変してキラキラと輝いてみせるのだから現金なものだ。

そうして思い出すのは、幸村があの時言った言葉。



『水溜りは別の世界につながってるから、不用意に踏むと
 そちらの世界に落っこちて戻れなくなってしまう』



水溜りを踏み抜いてしまった自分は もしかしたら今、

別の世界へと落っこちてきてしまったのかもしれない。

そして一度落っこちてしまったのだとすれば、

きっともう2度と戻る事はできないのだ。

そう腹をくくってしまえば、あとはなんて事は無い。

むしろ何故今までこの感情に名づける事ができなかったのかが不思議なくらいだ。

否 もしかしたら自分は自分でも気づかない内に自分を欺いたのかもしれない。



 本 当 は わ か っ て い た の に

 ず っ と 気 づ か な い フ リ を し て


 た だ  世 界 が 変 わ っ て し ま う の が 怖 く て

 落 っ こ ち た り 等 し な い よ う に 

 戻 っ て こ れ な く 等 な ら な い よ う に

 ず っ と  ず っ と  自 分 に 嘘 を つ い て 



じわり、と胸の中に広がる思い。

じわりじわりと まるで氷が解けるように溶け出す気持ち。


「プリ…俺とした事が、やってしもた。
 もう限界だったみたいでな…おかげで今物凄く泣きたい気分だ。」


なぜだか酷く鼻の奥がつんと痛んだけれど

わざとらしく泣きマネをして誤魔化した。

きっと今、自分は上手く笑えているに違いない。

なにせ ペテンは自分の得意とするところだ。


「うわ、もしかして浸水しちゃったの?
 確かにもう結構傷んでたからね、仁王のシューズ。」

「コレはもう、観念して新調するしかないのぉ…」

「そうだねぇ」


そういいながら、2人で右足をしげしげと眺めた。

ふと頭をもたげる感情。

それまでだんまりを決め込んで居座っていたくせに

名乗った途端に我が物顔をして見せるのだからたまらない。

それでも、今はその感情に身を委ねようじゃないか。


「幸村、今日部活の後、暇か?」

「今日?」

「そ。もし暇なら、この哀れな部員めが新しいシューズを
 選ぶのに付き合ってはもらえんかの、部長さん?
 なんなら参謀もセットでお貸し願えるとありがたいし、
 久々に皆で寄り道せんか?
 春休み中じゃし、制服でふらふらしてても
 テニスバッグさえ担いででりゃ補導はされんだろ。」


そう言って悪戯を持ちかける子供のようににやりと笑うと、

幸村はそれを見て、嬉しそうにふわりと笑った。


「いいよ。行こう。」


その笑顔に、酷く 酷く胸が熱くなった。

朝日に照らされてキラキラ キラキラと光るようなその姿が

とても とても眩しくて目を細める。


「決まりだな。
 そうと決まれば、ちゃっちゃか部活を済ませるとするかの。」

「ふふ、ちゃっちゃか済ませられるものならどうぞ?」


そんな風に軽口を叩きながら 並んで歩みを進める。

すると、ゆるりとほんの少し温かな風が頬を撫ぜた。

春はもう すぐそこまで来ている。





 さ  て 、 こ  の  気  持  ち  を  な  ん  と  呼  ぼ  う  か ?







END.






このサイトでは初のテニプリCP小説です…仁幸仁です。

某方へのお誕生日のプレゼントに書いてみました。

イメージとしてはまだ1年と2年の間だった頃のこの時期だと思っていただければ。

甘酸っぱい感じにしたかったので、この時期を選びました。

久々のテニプリだったので口調とか…設定とか…呼び方とか…かなり怪しい感じでお送りしております。

あと、幸村に関して、本編で触れてないところとか…勝手に書いてます。

うん。そうだね。捏造だね!(爆)どなたか、幸村がいつ部長になったのか教えて下さい。

ペアプリ年表とか…1年からレギュラーだった事は書いてあるのに…

いつから部長なのか書いてなかったんだ…。〇| ̄|_

もし万が一設定が違う事が発覚した場合は…こっそり手直しします。こっそり。

ちなみに、最後の一文に一言添えるとしたら、『世界はソレを 愛と呼ぶんだぜ!』です。(笑)

Sさん、お気に召すかはわかりませんが、どうかお納め下さい。


2013.3.24



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