ふわりふわりと水中を泳ぐ水泡は

やがて世界に出会ってパチンと消える


水面へと浮かんでは消えるその泡沫を

小さな私はただぼんやりと眺めることしか出来なかった









薄荷色泡沫人はっかいろうたかたびと








「老子、老子、起きてください、老子。」

「…」

「老子!」

カチカチとブレスレットのボタンを押しながら

必死に呼びかけた所で、目の前に眠るこの男は微動だにしない。

わかってはいたが、実際に全く相手にされないと酷く空しさを覚える。

ふわりふわりと半分体を宙に浮かせるようにして

柔らかな羊毛を枕に 温かい羊の群れの上を我が物顔で陣取る薄荷色。

眠る姿は 女性のそれを思わせるほどに美しく

さながら おとぎ話の眠り姫。

「老子、本当は起きているのでしょう?」

「…」

狸寝入りはこの人の常套手段だ。

それならばとポケットから取り出したのは1つのバリカン。

「無視を決め込むおつもりなら、
 今すぐに、貴方の下敷きにされているこの子達の毛を
 順に刈っていくまでの事です。」

そういってウィンウィンとバリカンを唸らせて脅すと、

ゆらゆらと次第に姿を現す幻影。

この幻影は、彼の作った装置による立体映像で

彼がレム睡眠の時に取る仮の姿だ。

それが現れた事で、してやったりと緩む口元を

持っていた本でさりげなく隠した。

「…うぅ…私の寝床を奪う気かい、邑姜…;?」

この男、名を『老子』…と言いたい所だが、

実際の所、この人の正確な名を私は知らない。

ただ、人々は皆、彼の事をそう呼んでいる。

彼は、自分の事はほとんど何も話さない。

否、正確に言えば、『話せない』と言う方が正しいかもしれない。

なぜならば、彼は、人々が彼の存在に気づいた時には

既に今と同じように眠りについていたそうだ。

以来、彼は飲まず食わずでひたすら眠り続けている。

実際、私が知っている限りでも、

実際に彼が目を覚ましている所を見たという人間はいない。

なぜ彼が眠り続けるのかと言えば、簡単な話。

彼は類まれなる怠け者なのである。

目を覚まし言動を取る事はおろか、呼吸さえも渋る始末なのだ。

しかしながら、実を言うと、この男 私の養父なのである。

眠りながらどうやって子供を育てたのか…

普通ならばそんな事はできるはずもない。

が、不思議な力を持つこの男にはそれが可能だった。

その方法が、このレム睡眠状態での具現化だ。

「一体なんだっていうんだい;?
 脳を働かせるのだってだってカロリーを消費するのに…;。」

そう言って、立体映像は大きなあくびを一つ。

この人は、一言で言ってしまえば本当にとても不思議な人だ。

不思議な力や道具を持っているという事もあるが、

その彼の持つ独特の雰囲気自体もとても堅気の人間だとは思えない。

何年経っても見た目が変わらなかったり、

飲み食いもせずにずっと眠り続ける事が可能な特異な体質からも

彼が仙界の関係者である事は間違いない。

だがしかし、私が知っている限りでは彼の元へ他の関係者が訪れた事はない。


(尤も、常に寝ている人間にわざわざ会いに来る物好きはそういないでしょうが…)


また、彼が仙界へと赴いているのも見た事がない。


(とはいえ、起きてどこかに行く事自体が皆無ですし…)


彼自身がそれらしい事を口にした事もない。


(まぁ、とんでもないめんどくさがりだから口を開く事自体そうないですからね…)


この人の謎は 私には大きすぎる。

だから私は、この人の事について探る事を辞めた。

問う事に至っては不必要だとさえ思っている。

本人が言わない事を、他の誰かが無理に聞き出すのは道理に反する、と私は思う。

もしも何か秘密ごとがあるのならば、

本人が自ら進んで話すのを待つか 他の誰かが自力で答えを探り当てるか

そのいずれかであるべきだ。

つまり、探る事を辞めた今、私にできるのはこの人が話すのを期待せずに待つ事だけ。

人間なんて結局は皆他人なのだ。

必要以上の甘えは許されない。

私はまだ年端も行かない子供だけれど、

すんなりと聞いても良い事と

聞くのではなく探るか待つかすべき事の区別くらいはできるつもりだ。

尤も、それさえも この人に教えられた事に他ならないのだけれど。

「この本の、この部分の意味がわからないので教えて欲しいのです。」

幻影の老子へと差し出したのは、分厚い1冊の本。

おそらく、私と同世代の子供が読むには

およそ似つかわしくない政治学についてのあれこれ。

「…それは…今でないとダメなの…?」

別に今でなくても…そういってぶつくさとごねる老子に、

私は畳み掛けるようにして言う。

「いつ起きるかもわからない人の目覚めなんて待ってなどいられません。
 なんせレム睡眠の時でさえこうして狸寝入りを決め込まれる始末ですから。
 更新に成功した今この時にお教え願えますか?」

「うぅ…わかったよ…;。」

そういって立体映像はゆらゆらと揺れて、

どれ、と私の手の中の本を覗き込む。

それと同時に、薄荷色の髪がさらりと頬にかかった。

それを鬱陶しそうに耳へとかけるこの人のしぐさが私はなぜかとても好きで、

いつもわざと少しだけ低い位置に本を抱えた。

「あぁ、これか。
 これはまた難しい本を選んだね、邑姜…」

「『自分が必要だと思った事は自ら学べ』
 …そうおっしゃったのは貴方でしょう?」

「うん、まぁそうなんだけどね…」

そういって、老子は私の求めた回答をゆるゆると紡ぎだした。





この人は本当に変わった人だ。

この人が私の養父になってからと言うもの、

この人は、私に対して特に子育てらしい子育てはしていない。

してくれたのは、衣食住の保障と、学ぶ事の保障…この2つだけ。

尤も、衣食住に至っては必要最低限を与えてくれただけで、

決して甘やかしてはくれなかった。

この人が私に与えてくれたのは、『羊』と『畑』と『家』

そして、『この後、自分はどうすべきか』という指南だけだ。

私はこの人の言う通り、家に住み、羊を育て、畑を耕した。

そして羊毛や羊のミルク、作物をお金に買え、必要な物を揃えた。

生活はこの繰り返しだという事を 私はこの人から学んだ。

そしてある日、この人はそれに付け加えるようにしてこう言った。

『自分が必要だと思った事は、自ら学びなさい』と。

その言葉で、私は様々な事を学んだ。

最初は羊や作物の上手な育て方。

そしてそれをより高いお金に換える術。

そのお金の上手な使い方。

お金の流れに市場の流れ。

果ては 世間の流れに辿り着いて、今現在学んでいるのは政治学。

この人は、私が学ぶ事に関しては寛大だった。

自分で少しずつお金を貯めてこつこつと本を集める事もあったが、

気が付くと、この人がどこからともなく様々な資料を用意してくれる事があった。

わからない事を質問すれば、ちゃんと理解できるように答えてくれた。


(まぁ、もちろんめんどくさがりはするけれど…)


おかげで、私は学ぶ事に不自由しなかった。

元々、学ぶ事はとても好きだった。

ただ今までは、多くを学べる環境になかっただけの事。

だからこそ、今のこの環境は私にとって幸せそのものだった。

この人の傍は、とても居心地が良い。

「…さて、ここまで言えば貴方なら続きも理解できるでしょう?
 僕はもう眠りに戻るよ…おやすみ。」

それだけ言うと、私の返事を待たずに老子は眠りに落ちた。

スヤスヤと静かな寝息に合わせてふわふわと揺れる薄荷色。

日差しを一身に受けてキラキラと光るその薄荷色が

酷く愛おしく思えて、思わず笑みが零れた。

しばらくして規則正しく揺れ始めた薄荷色を確認した後、

用件も済んだので睡眠の邪魔をしては…と思い、

その場を離れようと私は体をくるりと反転させて老子に背を向けた。

…が、しかし、背を向けたところで気が変わった。


(今日は天気が良いから…)


私はそのままストンとその場に腰を下ろし、

老子が身を委ねたのと同じ羊へと背を委ねた。

ふわふわとした羊毛と、柔らかな日差しが気持ち良い。





私はしばらくそのまま読書に耽っていたが、

その暖かな柔らかさは徐々に私を睡眠へと誘った。

気が付くと、うつらうつらと頭が舟を漕いだ。


(あぁ…私はなんて幸せなのかしら…)


暖かな寝床と恵まれた環境。

それ等はこの養父に出会うまでは無かった物。


(ずっとこの人の傍に居られたらいい…)


大好きな場所 大好きな物 大好きな人達。

それ等は全て自分の力で手に入れたようで 本当はそうではない。

それ等は全てこの人が与えてくれた物。


(この瞬間が一生続けばいい…)


暖かな気持ち 安らぎ 安堵。

何もかもこの人が教えてくれた物。





(ずっとこの人の傍に居たい…)





そう 願った。





後で気づいた事だけれど、

この時の私の思いは どうやら神様には届かなかったみたい。

だって 神様なんて

元々存在してはいなかったのだから。





「…今、なんて?」

一瞬、自分の耳を疑った。

「だからね、貴方に新しい居場所が出来たんだ。
 貴方の力を貸して欲しいという人がいるんだよ。」

そう紡ぎだしたのは、ゆらゆらと揺れる立体映像。

「この場所からずっと西へずっとずっと進んだ上空に
 『桃源郷』という場所がある。
 先日、僕はそこの長老に会ってきた。」





『そんなはずがない』





そう叫び出しそうになるのを必死に飲み込んだ。


「そこは大昔に下界と離れ 独自の営みを生み出している場所だ。
 桃源郷では誰もが平等で 争いが無い。」


老子はそうやってゆっくりと言葉を紡ぎだす。

時折見せる、どこか遠くを見ているような

心だけ何処か別の場所へ行っているかのようなその表情が

私の心をざわざわと波立たせた。


「…と、謳ってはいるが、正確に言うとそれは間違っている。
 桃源郷でも誰もが完全に平等なわけではないし、争いだってある。
 なぜなら個がある限り 望まなくとも上下が生まれ、
 上下がある限り亀裂が生まれるからだ。」


そうやって淡々と話す老子とは裏腹に

私の心は酷くざわついていた。

確かに老子はずっとここで横になっていた。

1度たりとも起きて何処かへ行く事等なかった。

その事は断言できる。

しかし、『そんなはずはないなんて断言できない』と脳の何処かで声がする。



(本当に老子はここにいたの?)



それは、私には断言の出来る事ではなかった。

私は、いつものように横になっていた老子に安心しきっていた。

このまま同じ毎日が過ぎていくのだと安堵していた。

でも、もしかしたら、そうではなかったのかもしれない。

否、そうではなかったのだ。

昔から、老子がどこか遠くを見るような表情を見せる度に

この人は体だけを残して心だけ何処か別の場所へ行っているのではないか、

なんて冗談めいた思いが浮かぶ事があった。



 で も き っ と 

 老 子 に は 本 当 に  そ れ が で き た の だ 



この人は 抜け殻になった体だけをここに残して

心はいつも ここではない何処かにいた。

私はいつも この人の傍に居たつもりになっていたけれど

本当はいつも 私をここへ残して何処か遠くに行っていたのだ。

この瞬間、私はそう確信した。


「だから貴方が律しなさい、邑姜。」


流れるようにして耳に入ってくるその言葉に

必死に神経を研ぎ澄ませて理解しようと試みるが、

どういうわけか脳が言葉を解そうとしない。

ぼんやりとした頭は、私自身の感覚をどんどんと鈍らせた。

輪郭さえも滲んでボケていくような不思議な感覚。


「貴方が桃源郷を正すんだ。
 個を消し、仮面で覆いなさい。
 法を用い、人々を導きなさい。」


心も体も確かにそこにあるはずなのに

心がどこか別の場所に行ってしまったような

心と体がバラバラに割かれてしまったような錯覚を覚える。


「桃源郷は貴方を必要としている。」


視界に映るゆらりゆらりと揺れる薄荷色だけが

私の心をなんとかここに繋ぎとめているようだった。







「老子は」







思考が回らない。




「老子は 私を必要とはしていないのですね。」




脳が考えるよりも先に 言葉が口から零れる。




「私は ここにいるべきではないのですね。」




溢れた感情が口から零れて止まらない。




「よく わかりました。」





私はそれだけ言って笑った。

でも、とてもじゃないが自分が上手く笑えているとは思えなかった。

もやもやと胸を覆う黒い影。





 あ  ぁ    そ  う  か



 私  は  貴  方  が  必  要  だ  け  ど  

 貴  方  に  私  は  要  ら  な  い  子



 あ  ぁ    そ  う  か


 私  は  貴  方  と  居  た  か  っ  た  け  ど

 貴  方  に  私  は  邪  魔  だ  っ  た



 あ  ぁ  私  は  な  ん  て  馬  鹿  な  の  か  し  ら

 独  り  よ  が  り  で  自  信  過  剰


 貴  方  も  私  と  同  じ  気  持  ち  だ  な  ん  て

 一  体  な  ん  で  思  っ  た  の 





濁って淀んで錆び付いた感情が溢れ出して止まらない。

表情が醜く歪む。

その顔を見られるのが嫌で こんな感情をこの人に向けるのが嫌で

私は踵を返して走った。

その瞬間 ほんの微かに あの人が私の名を呼ぶ声がしたけれど

私は聞こえない振りをした。





あの人の声を振り切るように

私は走って 走って 走って 走って

息も出来なくなるほどに走って

自分がどこに向かっているのか

どこに向かおうとしているのかさえわからなくなる程に

めちゃくちゃに走って 走って 走って

ただ走り続けた。

だがしかし、私の足は急にぴたりと止まる事になった。

池のほとりまで来たところで 泥濘に足を取られて躓いたのだ。

不本意ながらも、足が止まった事でほんの少し頭の芯が冷えた。


(あぁ…お気に入りのスカートが泥で汚れてしまったわ…)


そのままゆっくりと深呼吸をし、乱れた呼吸を整える。

重い体をのそりと持ち上げると、

ちりっとした小さな痛みが右の足に走った。

ふとみれば、右の膝には血が滲んでいた。

お気に入りのスカートがどす黒い泥を吸ってベタベタと腿の辺りに纏わり付く。

そのすぐ下から覗く 擦り剥けた膝がヒリヒリと痛い。

でも その時の私には そんな事なんてどうでもよくて



ギシギシと軋む胸が

痛くて 苦しくて 悲しくて



私はついに泣き出した。

私の意志とは関係なしに 涙は溢れて止まらない。

ボロボロと大きな水滴を零してくしゃりと歪む顔。

水面に映った自分の醜さが

まるで自分の我侭で独りよがりな心を全て映し出しているようで

とてもとても悲しくて 涙はさらに溢れ出す。



時折、水面に浮かんでは消える水泡だけが

私にとっては唯一の救いだった。

ふわりふわりと水中を泳ぐ水泡は

やがて水面まで来てパチンと消える。

水泡達は パチンと言う音と共に水面を小さく歪め

私の醜さを 薄いベールで覆い隠してくれるようだった。

水面へと浮かんでは消えるその泡沫を

私はただただぼんやりと眺めた。


(あぁ 馬鹿みたいだわ)


パチン と水泡が一つ弾けた。


(ゴネて 困らせて 甘えて)


ゆらゆらと水中を泳ぐ水泡。


(ずっとあの人の元にいては 私は駄目な子供のままなのだわ)


水面まで来て パチン パチン と浮かんでは消える泡沫。


( 私 は  あ の 人 の 元 に い る べ き で は な い の だ わ )


そう思うと同時に パチン と一際大きな水泡が割れた。

その瞬間 ふわりと空気が揺れた気がした。



「ここにいたの、邑姜。」



驚いて振り向けば、そこにはゆらゆらと揺れる薄荷色。

大好きなはずのその色は その時だけは酷く苦々しく感じた。

「探したよ。」

「…申し訳…ありませんでした、老子。」

そう言って私は精一杯くしゃりと笑った。

きっと さっきよりはずっとまともに笑えたと思う。

それでも、老子はほんの少し眉間に皺を寄せてから ゆっくりと口を開いた。



「邑姜…私は、」

「老子、私は桃源郷へ行きます。」



老子の言葉を遮る様に 私はそう呟いた。

その言葉に、老子はほんの少し目を見開く。



「私は 必要とされているのでしょう?」



感情を落ち着かせ 私はゆっくりと続けた。



「そう、すべきなのでしょう?」



ゆっくりゆっくりと 言葉を唇に乗せる。



「それならば 私は行きます。」



そう言って笑う私から目を背けるようにして

老子はゆるゆると視線を下げた。



「今まで たくさん迷惑をかけました。
 私は貴方から 本当にたくさんのものを貰いました。
 きっと貴方にとっては 子供なんて手の掛かる生き物は
 これ以上ないくらいの重荷だったに違いありません。
 それでも貴方は今まで私を支えてくれた。私を傍に置いてくれた。
 貴方にはどんなに感謝しても し足りません。
 本当に…」





 『 あ り が と う 』





そう紡ごうとした瞬間に、私の視界は真っ暗になった。

あまりに一瞬の事で、

自分が老子に抱きしめられているのだと気が付くまでに少し時間が掛かった。

柔らかな髪が頬に触れてくすぐったい。

私は その瞬間に初めて

目の前の薄荷色が幻影などではない事に気が付いたんだ。



「老、子…?」

「聞いて、邑姜。」



頭のすぐ上から声が落ちてくる。

その声は 脳に直接響いてくるようだった。



「私はね、貴方が必要なくなんてないよ。」



その言葉に 今度は私が目を見開く番だった。



「私は 貴方がとても大事だ。
 できる事なら このままずっと私の傍にいてほしいと思う。
 このまま2人でいつまでものんびり過ごせたらと思う。」



じわりと染み渡ってくるようなその声に

私はただじっと耳を傾けた。



「でもね邑姜、それじゃ駄目なんだ。
 なぜなら 桃源郷の人々は貴方を必要としている。
 彼らには君が必要だ。」



私の頭を支えている老子の右手は

ゆるゆると私の髪をその指に絡ませる。

そのまま、その手は私の頭をゆっくりと撫でた。



「そしていつか 彼らだけではなくて【世界】が貴方を必要とする。
 私は【それ】を知っているんだ。

 世界は 貴方が思っているよりももっとずっと広い。
 世界には 貴方の知らない事がまだたくさんあるんだ。

 あなたはそれを見なくてはいけない。
 知らなくてはいけない。

 いつかくる その時の為に。」



私の背中を支えている左手にぎゅっと力が篭った。

ほんの少しだけ その左手が震えているような気がしたけれど

私は また気が付かない振りをした。



「だからね 邑姜、どうかわかって。
 私は貴方がとても大事だから いつか来るその時の為に
 その時貴方が困らないように
 私は貴方を手放さなくてはいけない。
 私は 貴方を私のところに縛り付けてはいけないんだ。」



そう言う老子の顔は私からは見えないけれど

ほんの少し辛そうな顔をしているような そんな気がしたんだ。







「老子、老子。
 よく、わかりました。」

私がゆっくりと紡いだその言葉に

老子の両腕は力を失うようにするりと落ちた。

それと同時に 真っ暗だった視界に光が差し

ほんの少し眉を下げた老子と視線がぶつかった。

もう その視線を逃すまいと

私は老子の目を真っ直ぐに見つめて

ゆっくり ゆっくりと噛み締めるようにして言葉を紡ぐ。

「私が行くのは 私の意思です。
 他の誰の意思でもない。」

私がそう言うと 老子はほんの少し口を開いて何かを言いかけたのだけれど

またゆっくりとその口を閉ざした。

もう視線は外されない。

「確かにこれは貴方が私に指し示してくれた道かもしれない。
 それでも その道にそのまま進むのも 逸れるのも 私の意思一つです。
 決して貴方の意思ではない。」

風に撫ぜられゆらゆらと揺れる薄荷色。

私は そこから覗く白く美しい頬に右手でそっと触れた。

間違いなく この人は今ここにいるのだと確かめた。

「私は 私の意思で貴方の元を離れます。
 だから苦しまないで。
 貴方のせいじゃないのです。

 私は私の意思で歩きます。
 私が 私の意思で進めるのも
 私が 私の足で歩けるのも
 全部全部 貴方のおかげです。」

そう言い切ると 今度は私が老子を抱きしめた。

背はちっとも足りないし 頭にだって手は届かない。

それでも その背中に精一杯手を伸ばし

ぎゅっと抱きしめた。

「今まで本当に ありがとうございました、老子。」

パチン と大きな水泡が弾けた。

ふわりふわりと泳ぐ水泡。

水面へと浮かんでは消える泡沫。







ほんの少し昔の ほんの少し切ない思い出。







『邑姜 貴方は行かなくてよかったのかな?』

『私の出番はもう少し後でしょう?
 機の読み方は貴方から教わった事。

 いずれ 世界が私を必要とする。』








END.






老邑。

老←邑を目指したのですが、思いがけず老→邑にもなってしまいました…。

某方へのお誕生日のプレゼントでした。

私的に、邑姜の初恋は絶対に老子だと思っています。いやうん、マジで。(何)

ちなみに、【泡沫】とは水の上に浮いている泡の事で、

空形うつかた】が変化した物らしいです。

水に浮かんでは消えることからはかなく 消えやすい物の例えに使われたそうで。

そこから【泡沫人うたかたびと】はむなしい恋の相手の事を指したんだとか。

これを本で読んだ時は、それはもうこれは使わでおくべきかと…!(落ち着け)

正直、老子って絶対子供なんて面倒な存在だとしか思わなそうじゃないですか。

それをなんであえて育てたかと言えば、

文中で老子にも言わせましたが、『【それ】』を知ってたからだと思うわけです。

老子には、歴史の道標の事も、その先の未来も見えていたわけです。

だからこそ、導を外れた時の人々にとっての【非常灯になりえる人間】

を育てたんじゃないかなぁなんて勝手に思ってます。

そんで結局、予想外にもがっつり情が移っちゃったんだったらいいんだ。(笑)



ちなみに、なんの意識もなく書いたのですが、

文中で邑姜が言った『神様なんて 元々存在してはいなかったのだから。』

ってのは、我ながら言い得て妙だと思いました。

だって、神界ができたのも、神様って存在が生まれたのも、

全部これよりずっと後で、殷周革命も仙界対戦も神話の終焉も

何もかも全てが終わった後なんだもんね。そりゃおらんわ。(笑)


2012.1 再UP



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